母と映画を観に行く。我が家は父方も母方も太平洋戦争時に東京から田舎への疎開組で「東京大空襲」や「疎開」は当時もその後も私の家族の人生をまるごと変えてしまう、重みを持った出来事だった。映画のストーリーは、太平洋戦争末期、日本初の保育園児疎開に奮闘した保育士たちの実話。
実はこの保育士の方のうち一人を、私が子どもの頃に直接存じ上げている方で
その頃は大正生まれのほがらかで元気なおばあちゃん、というイメージだったのだけれど
この映画を観て、ちょっと認識を改めなければいけないな、と強く感じた。
空襲が頻発し混乱を極める戦争末期、戦争に勝てるのか、よもや負けてしまうのか、戦争はいつまで続くのか
東京に残るべきか、幼い子どもだけでも親から引き離してでも疎開させるべきか
どの選択がベストかなんていうことは当時誰にも分からない。
当事者の親からも
「子どもを産んだことのない先生たちには、親の気持ちは分からない。」
などと言われてしまい、園児疎開への理解が進まない。
そんな中、空襲を避けるためという意義だけではなくて、保育士への信頼から子どもを預け疎開させる決心をする親が出てくる。
苦労して探した疎開先では、受け入れはしてもらえてありがたい状況ではあるが、疎開民差別にもあう。働きもしない「消費班」と呼ばれる。おなご先生と呼ばれ、若い保母たちは村のえらいさん達のお酌要員にされる。村の青年と保母の関係が噂され、疎開保育園のお寺を「イロ寺」と揶揄される。資金、食料、人員、体力、周囲の理解、全てが足りない状況下。
映画では清潔感を保っていたけど、「文化的生活」を目指したくても
実際はノミシラミ、伝染病予防との戦いであったことは想像できる。
いつ終わるとも知れない戦禍、国全体がブラックで困難な時に、強い信念をもって、でも理想だけではなく
できることを必死でもがいて実行し、周囲の理解を得ながら難しい事業をやり遂げようとする保育士たちの姿に
かつて保育士の一員だった、あのおばあちゃんの覚悟と努力の大きさに胸を打たれ、涙が止まらなかった。
令和になった今、自分はすごく恵まれている。
映画のような苦労と尊い献身的な仕事が本当に身近にあったんだ、ということを絶対に忘れてはいけないと思った。
映画館はシネマ・チュプキ・タバタで観ました。
目の不自由な人も、耳の不自由な人も、だれもが一緒に映画を楽しめる
かわいいサイズのユニバーサルシアター。
日本語字幕がついており、耳が少し遠くなっている母にも観やすかったとのこと。
映画の最後はみんな号泣で拍手もおきて…。なんだか一体感を感じてしまった。
とてもあたたかで良い映画館でした。